16世紀、アフリカよりブラジルへ大勢の黒人達が奴隷として連れて行かれました。故郷から遥か離れた土地のサトウキビ畑で過酷な労働を強いられ自由を奪われました。そんな中、主人の暴力や迫害から逃れ日々の辛さを忘れる為にcapoeiraがうまれました。主人の目を欺く為に信仰やダンスにカモフラージュして伝えられていきました。 19世紀にブラジル全土に奴隷解放令が施行され黒人達は自由を取り戻したように見えました。しかし世間からの差別や社会的環境は悪く貧しさは黒人達を苦しめました。貧しさからカポエイラは悪用され犯罪の種となり法律で禁止されるまでになります。取り締まりの厳しかったリオデジャネイロでは一度途絶えますがバイーア等の各地では密かに伝えられていきました。 20世紀初頭mestre bimba と mestre pastinhaの2人によってカポエイラは世間から認められるようになっていきます。mestre bimbaはそれまでのカポエイラのイメージを大きく変えるために様々な変化を加え、luta regional baianaと名付け、今のcapoeira regionalの原形をつくりブラジルで初めて政府公認の道場を開くまでに至りました。regionalはそれまでのカポエイラとは違い素早い動きとアクロバットの要素を加え儀礼的な部分を省きました。現在の帯のシステムに繋がるネッカチーフによる段階分けや黒人以外にも白人の中流階級の若者達にもカポエイラを教えました。bimbaのカポエイラは大きく広まり大統領の前でショーをするまでに至りました。 一方、mestre pastinhaはそれまでのカポエイラを尊重しcapoeira angolaとして伝統を残し、それまでの混沌としたカポエイラを整理して多くの人たちに伝えていきました。楽器隊の編成を定めたり黒いズボンに黄色のtシャツをユニフォームとしたりと現在のcapoeira angolaの元を整えました。政府公認の道場を開き1996年にはダカールの黒人アートフェスにブラジル代表として参加しました。 その後2人のmestreの弟子達がカポエイラをブラジル全土に広め世間的にも認められるようになっていき、やがて世界に広がっていきます。日本にも1990代後半から少しずつ広まり今では日本中にカポエイラの教室があります。 capoeiraには音楽があります。楽器隊の奏でるリズムにあわせリズムを刻みゲームをします。リズムが早くなればゲームも早くなります。奏でるリズム(toque:トーキ)には種類がありそれによりゲームの種類が決められます。 楽器隊(バテリーア)は、弓に瓢箪の共鳴器をつけたような形のビリンバウ、ロープ張りの太鼓アタバキ、パンデイロ、アゴゴ、ヘコヘコで編成され独特のハーモニーを奏でます。ビリンバウには大中小のサイズがあり大きなサイズのgungaがリーダーでリズム、スピードをコントロールします。 音楽に合わせポルトガル語の歌が歌われます。その時のゲームの状況や文化、歴史等様々な歌が歌われます。楽器隊だけでなく参加者全員で輪を作り拍手をしながら歌をうたいます。音楽が盛り上がれば中でゲームする人たちにも伝わりゲームも盛り上がります。